父と子と聖霊の御名によって。アーメン。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、皆さんとともにありますように。
主よ、私たちの心の恐れと騒ぎを鎮めてください。主よ、憐れんでください。 キリストよ、私たちの弱さと悲しみに寄り添ってください。キリストよ、憐れんでください。 主よ、御言葉の権威をもって私たちに真の平和をお与えください。主よ、憐れんでください。
静かな土曜日の安息日、カファルナウムの会堂の中に、人々の息づかいが満ちていました……。
古びた木の匂いと、羊皮紙の静けさ。そこにいた人々は、耳を傾けていました。イエス様が言葉を語られるとき、そこにはそれまでの学者たちの解説とはまったく異なる「何か」があったからです。飾り立てた大言壮語でもなく、難解な律法の理屈でもない。ただ、魂の最深部に直接届く、澄み切った静かな力。人々はその言葉の「権威」に、息をのむ思いで引き込まれていました。
しかし、その深い静寂を破るように、突然、会堂の隅から荒々しい大叫びが響き渡ります。「ああ、ナザレのイエス、わたしたちと何の関係があるのか! わたしたちを滅ぼしに来たのか!」
人の心をかき乱し、平安を奪い去ろうとする激しい混乱の声です。しかし、イエス様はその叫び声に動揺されることはありませんでした。大騒ぎをする悪霊に向かって、主はただ静かに、短く命じられました。「黙れ。この人から出て行け」。
すると、騒ぎ立てていた悪霊は、その男を人々の中に投げ倒したものの、「何の害も加えずに」出て行きました。会堂には再び、元通りの、あるいはそれまで以上に深い静けさと、主の平和が戻ってきたのです。
今日、私たちはこの「騒乱を鎮める、主の静かで力強い一言(権威ある言葉)」という一つのイメージを、第一朗読の聖パウロの手紙、そして私たちが心から愛するベンジャミン・ヴォ君――ベン君の生涯と重ね合わせながら、静かに、そして深く見つめていきたいと思います。
第一朗読で、聖パウロはコリントの信徒たちにこう語りかけています。「人の内にある霊のほかに、だれが人のことを知りえましょうか。同じように、神の霊のほかに、神のことを知る者はいません。わたしたちは、この世の霊ではなく、神からの霊を受けました」。
パウロが言うように、人間の目に見える表面的な振る舞いや、この世の知識だけでは、その人の真の深みを推し量ることはできません。人の魂の最も深いところにある思いを知っているのは、その人の内にある霊であり、そして何よりも、すべてを究めつくされる神の聖霊だけです。
私たちが愛するベンジャミン・ヴォ君、ベン君が天の父のもとへと旅立たれてから、およそ二ヶ月が経ちました。六月十三日から、今日という日まで……。
アランさん、タオさん、そしてライアン君。
この二ヶ月という月日は、あなた方にとって、どのような時間だったでしょうか。
最初の激しい悲しみの波が少しずつ静まり、家の中に日常の静けさが戻ってくるにつれ、かえってベン君の「不在」という巨大な重みが、胸の奥深くにのしかかってくる時期かもしれません。街を行き交う人々はいつも通りの一日を送り、季節は少しずつ変わっていきます。それなのに、あなた方の家庭の中には、ベン君が使っていた机、彼が見つめていた画面、彼と一緒に過ごした部屋が、ぽっかりと空いたまま残されています。朝、目が覚めた瞬間に襲ってくる「彼はもうここにいない」という現実。それは、胸を深く突き刺すような、偽りのない痛みです。
私たちは、その痛みを急いで押し殺したり、無理に元気を装ったりする必要はありません。まず、その悲しみをありのままに認めましょう。大切な我が子、大切な誇りであるお兄ちゃんを失った痛みに涙することは、それほどまでにベン君を深く、愛し続けているという尊い愛の証しだからです。
第一朗読と福音書は、私たちのこの深い喪失感と、心の中の激しい騒ぎに、静かに寄り添ってくれています。
カファルナウムの会堂で叫び声を上げた男のように、私たちの心の中にも時として、激しい感情の嵐が吹き荒れることがあります。「なぜ、これほどまでに優しく、賢いベンが、わずか十五年で旅立たなければならなかったのか」「なぜ、私たちの家庭に、このような過酷な試練が訪れたのか」という、答えのない問い。夜の静けさの中で、その問いが心を取り囲み、静寂を破って大声で叫び出したいような葛藤に苛まれることがあります……。
アランさん、タオさん。この二ヶ月間、あなた方は暗闇の中で何度もこの問いを繰り返し、時には「自分たちの何かが足りなかったのではないか」「もっと早く、何か別の手立てがあったのではないか」と、ご自身を責める静かな苦しみに苛まれてこられたのではないでしょうか。我が子を命がけで守りたかったという、あまりにも深い愛ゆえに、自らの無力さを責め、misplaced guilt(場違いな罪悪感)の重荷を心に背負いそうになる夜があったかもしれません。
今日、主イエスは、その暗闇の中で胸を痛めるあなた方の傍らに静かに座り、その傷ついた肩を抱き寄せながら、はっきりと語りかけておられます。
かつて弟子たちが、生まれつき目の見えない人を見て「だれが罪を犯したのですか。本人ですか、両親ですか」と尋ねたとき、イエス様はきっぱりと答えられました。「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業が彼に現れるためである」(ヨハネ9:3)。
アランさん、タオさん。ベン君の病も、その旅立ちも、絶対に、誰のせいでもありません。あなた方の愛が足りなかったからでも、何かを見落としたからでもありません。病というものは、誰の罰でもなく、人間のいかなる注意や配慮をも超えたところで訪れる、この世の哀しい限界の一部なのです。神様はあなた方を決して責めてはおられません。むしろ、ベン君という美しく輝く魂を、十五年間、これ以上ないほどの深い慈しみと尊重をもって育み、彼の「心の深み」を温かく支え続けたあなた方のその「親としての手」を、神様は誰よりも尊び、祝福しておられます。どうか、ご自分を責めるのを、今日、おやめください。あなた方は、最高の親でした。ベン君は、世界で一番幸せな息子として、あなた方の愛を全身に浴びて育ったのです。
ベン君の十五年という生涯を、今日朗読された「神の霊の深み」と「大空を見上げる視線」という光の中で重ね合わせてみましょう。
ベン君は、非常に鋭く論理的な頭脳を持った少年でした。14歳にしてAIやクラウド・インフラ、AWSといった現代の最先端テクノロジーの仕組みを理解し、お父様と同じエンジニアとしての高い情熱を共有していました。しかし、彼の知性の凄大さ以上に美しかったのは、目に見えない世界の仕組みや、高い空へのあくなき探求心と憧れでした。
ベン君は、商業用旅客機、特にボーイング737をはじめとする飛行機をこよなく愛していましたね。お父様とともに世界のさまざまな街を訪れるたびに行っていた「エアポート・スポッティング(飛行機観察)」の時間を思い出してみてください。頭上を静かに、しかし圧倒的な力をもって滑空していく巨大な翼。目に見えない空気の流れ(風)を捉えて、大空へと高く舞い上がっていく飛行機の姿を、ベン君は目を輝かせて見つめていました。
かつて航空博物館を訪れたとき、戦闘機のコクピットの脇に立ち、弟のライアン君とともに誇らしげに、そして好奇心に満ちた瞳で外を見つめていたあのベン君の姿。彼は、ただ単に機械が好きだっただけではありません。目に見えない風に乗って、世界とつながり、無限の大空へと広がっていく「大きな力」に対して、深い敬意と憧れを抱いていたのです。
聖パウロは言います。「人の内にある霊のほかに、だれが人のことを知りえましょうか」。
飛行機が目に見えない空気の力によって支えられているように、ベン君の心の奥底にも、人間の言葉だけでは語り尽くせない、神様から与えられた深く清らかな「霊」が流れていました。彼の優しい笑顔、家族に向けられた深い尊敬、そして大空を見上げるあの澄んだ瞳。それらはすべて、彼の中に与えられていた神の霊の美しさのあらわれでした。
福音書の中で、イエス様が悪霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになったとき、悪霊はその男を倒したものの、「何の害も加えずに」出て行ったと書かれています。
この「何の害も加えずに」という言葉に、私たちは神様の絶対的な守りと、愛の権威を見出すことができます。この地上の病や死は、一見すると私たちの肉体を打ち倒し、すべてを破壊したかのように見えるかもしれません。悪や苦しみは、私たちの希望を奪い去ったかのように威張っています。しかし、キリストの権威ある御前においては、死も病も、ベン君の真の魂、彼の「本質」には、何の害も加えることができませんでした。
病は彼の肉体を休ませることはあっても、彼の中にあった愛、家族との絆、お父様とお母様への感謝、ライアン君への慈しみ、そして神様への無垢な信頼を、何一つ損なうことはできなかったのです。イエス様の静かな力強い言葉が、すべての苦しみと混乱を完全に追い払い、ベン君の魂を傷ひとつない清らかな姿で、天の父の御手へと受け止められたのです。
お父様がご覧になったあの不思議な夢を思い出してください。
夜の静寂の中で示されたあの夢……。ベン君は緑色のショートパンツを履き、とても健康そうな姿で部屋の前に立っていました。「パパ、テストはどれも全部パスしたよ。自分で普通に呼吸できるんだ……」と語りかけてくれたあの姿。お父様が彼を抱きしめたとき、ベン君は「大丈夫、僕がパパとママを見守っているからね」と言ってくれました。
その言葉こそ、イエス様が彼の心の中の苦しみを鎮め、彼に新しい命と平和を与えられた証しです。ベン君はこの地上のあらゆる「テスト」を、純粋な愛と誠実さをもって完全にパスしました。彼は今、病の息苦しさや制限から完全に解き放たれ、彼が大好きなあのボーイング737よりもはるかに高く、雲を突き抜けた天国の無限の光の中で、自由に呼吸し、安らかに憩っています。彼は今、同じく15歳で天に召された聖カルロ・アクティスとともに、天国の祝宴の席で清らかな笑みをたたえています。
ベトナムのカマウに建てられた「愛の井戸(Giếng Gioan Baotixita)」からコンコンと湧き出る清水は、ベン君の名「大洋(Đại Dương)」のように、彼の命が今や神様の恵みの深い海へとつながり、渇いた人々に生命を注ぎ続けていることの目に見える印です。彼の愛は途絶えることなく、今もこの地上で清らかな水となって流れています。
弟のライアン君。
お兄ちゃんは、あなたのことを今も、誰よりも誇りに思い、愛しています。スカウトの制服を着て一緒に並んで笑った日も、航空博物館で一緒にコクピットを見上げた日も、お兄ちゃんの心はいつもあなたと共にありました。あなたがこれから歩んでいく人生の一歩一歩を、お兄ちゃんは天国の高い空から、「ライアン、大丈夫だよ。頑張れ」と、あの優しい笑顔で見守っています。あなたがこの地上で健やかに、幸せに、自分の道をしっかりと歩んでいくこと。それこそが、天国のお兄ちゃんにとっての一番の喜びであり、願いなのです。
画面を通してこの祈りをともに捧げている、世界中の皆さま。病床で苦しむ子どもたち、そして愛する人を失い、心の中に激しい悲しみの嵐が吹き荒れているすべてのご家族の皆さま。
どうか知ってください。私たちの心の中にある激しい恐れや悲しみの叫びを、主イエスは決して見捨てられません。主は今、私たちの心の会堂にお立ちになり、混乱と絶望に向かって「黙れ。平安あれ」と命じてくださいます。聖パウロが言うように、「わたしたちはキリストの思いを抱いています」。私たちの知識や力が力尽きるとき、キリストご自身の思いと平和が、私たちの心を包み込んでくださるのです。
今日、この祈りの集いを終えて、皆さんがそれぞれの生活へと戻られるとき、一つの小さなことを心に携えて出かけてください。
それは、今日、ふと空を見上げるとき、あるいは心の中に悲しみや不安の騒ぎが湧き起こったとき、足を止め、深呼吸をして、イエス様の静かな権威ある言葉を思い起こす、ということです。「黙れ。平安あれ」。主の静かな一言が、あなたの心の中の嵐を鎮めてくださることを信じ、ベン君が見つめていたあの大空のように、神様の無限の愛にすべてを委ねてみてください。
ベンジャミン・ヴォ君。あなたの美しい魂は、今、神様の無限の慈しみの中で、翼を広げて高く羽ばたいています。あなたの残してくれた清らかな愛と知性は、私たちの心の中で、今も決して消えることのない光として輝いています。天国の大空から、どうか私たちを、そしてあなたを愛してやまない大好きなご家族を、これからも優しく見守ってください。
平和の主ご自身が、アランさん、タオさん、ライアン君、そして今日祈りを合わせるすべての人々の上に、常に、豊かな平和と慰めを注いでくださいますように。
アーメン。
For the intentions entrusted to Ben on our prayer wall:
At the Savior’s command and formed by divine teaching, we dare to say:
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
主が皆さんを祝福し、あらゆる悪から守り、永遠の生命へと導いてくださいますように。アーメン。
✝ 全能の神があなたを祝福し、父と、子と、聖霊の恵みがあなたとと もにありますように。アーメン。