父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、今日この聖なる集いへようこそお越しくださいました。心を合わせ、主の御前に静まり、私たちのうちに神の愛が満ちるよう祈りましょう。
主よ、憐れんでください。 キリスト、憐れんでください。 主よ、憐れんでください。
目を閉じて、あるいは開いたままで、今日の第一朗読が描く、ある光景を心に思い浮かべてみてください。
預言者エゼキエルは、主の御手によって、広大な平野の真ん中に導かれました。その平野は、一面の骨で埋め尽くされていました。数えきれないほどの、乾ききった骨……。風が吹けばカラカラと音を立てそうな、命の痕跡が失われた、荒涼とした世界です。エゼキエルは、その骨の間をあちらこちらと歩き回らされました。彼が見たのは、あまりにも多くの、そしてあまりにも乾ききった骨でした。
そして、主はエゼキエルに尋ねられました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。
この問いは、私たち自身の心にも響く問いではないでしょうか。私たちの人生において、希望が完全に失われ、すべてが乾ききってしまったと感じる瞬間があります。愛する人を失い、心にぽっかりと穴が空いてしまったとき。努力が報われず、もう立ち上がる気力もないとき。未来が真っ暗闇に見え、すべてが終わりだと感じるとき……。私たちの心は、まるでエゼキエルが見たあの乾いた骨のように、生気を失い、ただそこに横たわっているだけのように思えることがあります。
ベンジャミン君が天の父のもとへ旅立ってから、今日で九週間が経ちました。九週間という時間は、どれほど長かったことでしょう。
お父様のアランさん、お母様のタオさん、そして弟のライアン君。皆さんの心の中には、今もベン君がいたはずの場所に、大きな空白が広がっていることでしょう。ベン君の笑い声が聞こえない食卓。彼が熱中していたゲームの画面。彼の好奇心に満ちた目が輝いていた瞬間の記憶……。それらが、今は静寂の中に沈んでいます。朝、目が覚めた瞬間に、その静寂が胸を締め付ける。夜、一人になると、その寂しさが深くのしかかる。
それはまさに、今日の第一朗読でイスラエルの民が語った言葉、「私たちの骨は乾き果て、希望は失われ、私たちは滅び去った」という叫びと重なるかもしれません。深い悲しみの中で、私たちは自分自身を責めてしまうことがあります。「もしあの時、こうしていれば」「もっと何かできたのではないか」と。愛する者の苦しみを前に、私たちは自らの無力さに打ちひしがれ、罪悪感に苛まれることがあります。まるで、この乾いた骨のような状態が、自分のせいであるかのように感じてしまうのです。
しかし、主はエゼキエルを通して、私たちに力強く語りかけます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」。そして、その問いへの答えは、私たち人間には知り得ない、神のみが持つ力の中にあります。
主は言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言え。『乾いた骨よ、主の言葉を聞け!』」。
そして、主は約束されます。「見よ、わたしはあなたたちのうちに霊を吹き込み、あなたたちは生き返る。わたしはあなたたちに筋をつけ、肉をつけ、皮膚で覆い、あなたたちのうちに霊を吹き込む。そうすれば、あなたたちは生き返り、わたしが主であることを知るであろう」。
ここで語られている「霊」(ルーアハ)とは、ヘブライ語で「息」や「風」をも意味する言葉です。それは、神の命そのもの、神の息吹です。神の霊が吹き込まれるとき、乾ききった骨は命を得て、再び立ち上がります。それは、単に肉体が再生するだけではありません。それは、希望の再生であり、魂の回復であり、神との関係の再構築です。
ベンジャミン君は、本当に「霊」に満ちた少年でした。彼の人生は、まさに神の息吹に満ちた、輝かしいものでした。彼は生まれながらにして、尽きることのない好奇心と、世界に対する飽くなき探求心を持っていました。幼い頃から、彼は周りの世界を、目を輝かせながら見つめていました。数学やプログラミング、AIやクラウド技術といった最先端の分野にまで、彼の知的な探求心は及びました。それは、まるで彼の中に、常に新しい知識と理解を求める「命の息吹」が吹き込まれているかのようでした。
空港で飛行機を眺める彼の姿を想像してみてください。あの大きな旅客機が、重力に逆らって大空へと舞い上がっていく姿を、彼はどれほど目を輝かせて見ていたことでしょう。それは、単なる機械への興味ではなく、その背後にある技術、そして人間が持つ創造性と可能性への感動だったのではないでしょうか。彼自身が「コン・チム航空」という航空会社を夢見ていたことからも、彼の内なる「霊」が、どれほど自由に、そして創造的に羽ばたきたがっていたかが分かります。
彼の知性は、単なる知識の蓄積ではありませんでした。それは、世界をより深く理解し、人々とつながり、新しいものを生み出したいという、彼の「生きる霊」の表れでした。彼の笑顔、彼の優しさ、家族への深い愛情、困っている人を助けたいという純粋な心(叔父様のために貯金箱を差し出そうとした話は、彼の心の豊かさを物語っています)……これらすべてが、彼という存在に吹き込まれた「命の息吹」の証でした。
主は、エゼキエルに再び命じます。「霊に向かって預言せよ。人の子よ、預言して霊に言え。『主なる神はこう仰せになる。四方の風よ、来い。殺されたこれらの者に吹き、彼らが生き返るようにせよ』」。
そして、エゼキエルが預言すると、霊が彼らのうちに入り、彼らは生き返り、立ち上がりました。それは「非常に大きな軍勢」でした。乾ききった骨が、神の霊によって命を得て、再び目的を持って立ち上がったのです。
この奇跡は、イスラエルの民への約束でした。彼らが絶望の淵にいても、神は彼らを墓から呼び起こし、再びその地に住まわせると。神は約束されたことを必ず行う、と。
愛する皆さん、この物語は、私たち一人ひとりへの約束でもあります。私たちの心が乾ききり、希望が失われたと感じる時、神は私たちに「命の息吹」を吹き込み、私たちを再び立ち上がらせてくださるのです。それは、私たちがどれほど深い悲しみの中にいても、どれほど無力さを感じていても、神の愛は決して私たちを見捨てない、という確かな希望です。
ここで、今日の福音の言葉を心に留めましょう。ファリサイ派の律法の専門家がイエス様に尋ねました。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」。
イエス様は答えられました。「『あなたは心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『あなたは隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして神を愛すること。そして、隣人を自分のように愛すること。この二つの愛こそが、私たちに「命の息吹」を与え、私たちを真に生かす「霊」なのです。神の霊が私たちに吹き込まれるとき、それは私たちの中に、この神への愛と隣人への愛を燃え上がらせます。
ベンジャミン君の人生は、まさにこの二つの愛に満ちていました。彼の好奇心は、神が創造された世界の美しさと神秘への愛でした。彼の優しさと共感は、隣人への愛でした。彼は、その短い生涯の中で、私たちに「命の息吹」がどれほど尊く、どれほど力強いものであるかを教えてくれました。
お父様のアランさん、お母様のタオさん、そしてライアン君。ベン君の死は、皆さんの心に深い傷を残しました。時に、「なぜこんなことが起こったのか」「私たちは何か間違ったのではないか」と、自らを責める声が聞こえてくるかもしれません。しかし、イエス様がかつて生まれつき目の見えない人について「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない」と語られたように、ベン君の病や早すぎる旅立ちは、決して誰のせいでもありません。それは、人間の理解を超えた、人生の神秘の一部です。神は、あなた方を責めてはおられません。神は、愛する者たちを罰するために病を送るような方ではありません。
あなた方は、ベン君に惜しみない愛を注ぎました。その愛は、彼の「命の息吹」を輝かせ、彼を支えました。その愛は、今も皆さんの心の中で生き続けています。そして、その愛こそが、神が私たちに吹き込んでくださる「霊」の最も純粋な形なのです。
エゼキエルの幻の中で、骨はまず「筋と肉と皮膚」で覆われました。しかし、まだ「霊」はありませんでした。形は整っても、命がなければ意味がありません。私たちも、人生の様々な局面で、形だけは整っているのに、魂が抜けたように感じることがあります。しかし、主は約束されます。形だけでなく、その中に「霊」を、すなわち「愛」を吹き込んでくださると。
ベン君の「命の息吹」は、今も世界に影響を与え続けています。彼の名前で、遠いベトナムの地に「愛の井戸」が掘られ、人々に清らかな水をもたらしています。それは、ベン君が地上に残した愛が、形を変えて、今も人々の渇きを癒やし、命を育んでいる証です。彼の内側にあった「生きる霊」が、死を超えて、今も世界に良い影響を与え続けているのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちは皆、人生の中で「乾いた骨」のような状態を経験します。希望が失われ、心が冷え切り、もう立ち上がれないと感じる瞬間が必ず訪れます。しかし、今日の朗読は、私たちに力強い希望を与えてくれます。神は、その「命の息吹」を私たちに吹き込み、私たちを再び生かし、立ち上がらせてくださる、と。
ベンジャミン君は今、天の国で、その「命の息吹」に完全に包まれています。彼は、地上のあらゆる苦しみや病から解放され、神の無限の愛の中で、聖母マリア様や聖カルロ・アクティスとともに、永遠の命を生きています。彼の輝かしい「霊」は、今も天の上から、大好きなご家族、特に弟のライアン君の成長を、あの優しい笑顔で見守り続けています。
お父様のアランさん、お母様のタオさん、そしてライアン君。ベン君は皆さんに語りかけています。「お父さん、お母さん、ライアン、どうか悲しみに押し潰されないで。僕はこんなに元気に、天の光の中にいるよ。だから、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、神様を愛し、そしてお互いを愛し続けて生きてね」と。
画面を通してこの祈りに参加されている遠くの皆さま。病とたたかっている全国のお子さんたち。そして、愛する家族を失い、深い悲しみの十字架を背負っておられるすべてのご家族の皆さま。
神様は、私たちの乾ききった心に、ご自身の「命の息吹」を吹き込んでくださいます。その息吹は、私たちを愛と希望で満たし、再び立ち上がる力を与えてくれます。私たちが「もうダメだ」と諦めそうになる時、主はそっと近づき、私たちの心に温かい「霊」を注いでくださいます。
今日、この聖堂を出るとき、あるいは画面を閉じるとき、一つの小さな希望を胸に持ち帰ってください。
それは、日々の生活の中で、今日一日、意識的に「神の息吹」を吸い込むように、心を尽くして神を愛し、隣人を愛する小さな行いを一つすることです。例えば、誰かに優しい言葉をかけること。感謝の気持ちを伝えること。あるいは、ただ静かに一分間、心の中で「主よ、私のうちにあなたの愛の霊を吹き込んでください」と祈ること。
その小さな一歩が、私たちの乾いた骨に再び命を吹き込み、私たちを「生きる霊」に満ちた者へと変えてくれるでしょう。
ベンジャミン・ヴォ君の「命の息吹」は、今も私たちの中で、そして世界の中で生き続けています。主イエス・キリストの慈しみと、聖母マリア様の母なる御保護が、今日も、そしてこれからもずっと、皆さんの歩みを照らし続けてくださいますように。
アーメン。
For the intentions entrusted to Ben on our prayer wall:
At the Savior’s command and formed by divine teaching, we dare to say:
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
主があなた方とともに、いつもおられますように。全能の神、父と子と聖霊の祝福が、あなた方の上に豊かにありますように。アーメン。
✝ 全能の神があなたを祝福し、父と、子と、聖霊の恵みがあなたとと もにありますように。アーメン。