父と子と聖霊の御名によって。アーメン。私たちの主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともにありますように。
主よ、冷たくなった私たちの心を憐れんでください。キリスト、主よ、哀れんでください。 キリストよ、私たちに新しい心と新しい霊を与えてください。キリスト、主よ、哀れんでください。 主よ、私たちをあなたの平和の宴へと招いてください。主よ、哀れんでください。
クローゼットの奥に静かに掛けられた、一着の紺色のシャツを思い浮かべてみてください……。
そこには小さな白い星の模様が散りばめられていて、明るい光に照らされると、まるで夜空の星々が静かに微笑んでいるかのように見えます。その服に袖を通した十四歳の少年の姿を、ご家族は今もはっきりと覚えていることでしょう。手をポケットにそっと入れ、背筋を伸ばし、照れくさそうに、けれど誇らしげにカメラに向かって微笑んでいたベンジャミン君の姿を……。
今日、聖書が私たちに見せてくれるのは、まさにそのような「服」をめぐる物語です。
福音書の中で、天の国は王が催す息子の「婚礼の宴」に例えられます。王様は豪勢な料理を準備し、テーブルを整え、街中のすべての人々を招きました。善人も、悪人も、道端に立っていたすべての人が呼び集められ、宴会場は人でいっぱいになりました。しかし、そのただ中に一人だけ、「婚礼の衣」を着ていない男がいたと聖書は語ります。
「婚礼の衣」とは何でしょうか……?
それは、王様が入口で一人ひとりに惜しみなく手渡した、王家の「恵みの衣」です。自分を飾るための高価な服ではありません。自分を綺麗に見せるための自慢の衣装でもありません。ただ、招いてくれた主人の愛を素直に受け取り、「あなたのお招きに感謝して来ました」という、へりくだった感謝の心そのものを身に纏うこと……それが婚礼の衣でした。
第一朗読で、預言者エゼキエルを通して神様はこう約束しておられます。
「わたしはあなたたちの上に清い水を注ぎ、すべての汚れからあなたたちを清める。わたしはあなたたちに新しい心を与え、あなたたちの内に新しい霊を授ける。あなたたちの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル36:25-26)。
神様が私たちに着せてくださる婚礼の衣とは、まさにこの「清い水で洗われた新しい心」であり、「柔らかい肉の心」なのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。
ベンジャミン・ヴォ君が天の父のもとへ旅立たれてから、今日でちょうど九週間……六十三日の月日が流れました。
九週間という時間は、残されたご家族にとって、どのような時間だったでしょうか。
ベン君がいつも座っていた食卓の椅子。彼が大切にしていたパソコンの画面。静まり返った部屋。朝、目が覚めた瞬間に襲いかかる「もう彼はここにいないのだ」という冷たい現実の波……。
お父様のアランさん、お母様のタオさん、そして弟のライアン君。
胸を刺すような寂しさと、言葉にならない空白感の中で、皆さんはどれほど深くため息をつき、静かな涙を流してこられたことでしょう。どれほど祈っても、どれほど叫んでも、ベン君の温かい手触りが戻ってこないその切なさを、私たちは決して安易な慰めの言葉で覆い隠すことはできません。
時に、愛する者を失った遺族の心には、深い哀しみとともに、暗い影のような問いが忍び寄ることがあります……。
「なぜ、あの子だったのだろう」
「自分が何かを見落としていたのではないだろうか」
「あの時、もっとこうしていれば、何かを変えられたのではないか……」
夜、一人静かな暗闇の中で、自分自身を責める声が胸の奥で響くことがあります。
しかし、今日、イエス・キリストの御言葉とともに、私は皆さんに固くお伝えしたいのです。
かつて生まれつき目の見えない人を見た弟子たちが「だれが罪を犯したのですか。本人ですか、両親ですか」と尋ねたとき、主イエスはきっぱりとお答えになりました。「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない」(ヨハネ9:3)と。
アランさん、タオさん。どうか聞いてください。
ベン君の病や早すぎる旅立ちは、決して誰のせいでもありません。ご両親の愛が足りなかったからでも、何かを見落としたからでもありません。人間の力や注意では決して防ぐことのできなかった、深い謎に包まれた地上の現実なのです。神様はあなた方を責めてはおられません。神様は罰として病を与えるような方ではありません。
どうか、その不当な自責の念という重い石を、今日、主イエスのみもとに降ろしてください。あなた方は、ベン君に注ぎ得るすべての愛を、惜しみなく、美しく注ぎ尽くされました。その愛の深さを、ベン君自身が誰よりもよく知っています。
ベンジャミン君という少年は、神様から与えられたその「柔らかい心」を、生涯ずっと大切に着続けていた子でした。
ベン君は、非常に鋭く恵まれた知性を持っていました。論理と数学に秀で、プログラミングやテクノロジーの世界に没頭し、画面に向かってコードを書き上げ、自らゲームやアプリのプログラム(GitHubのコード)を作り上げるような才能にあふれていました。
けれど、彼がその優れた頭脳を使って築き上げていたものは、自分を誇るための城ではありませんでした。彼の心にあったのは、いつでも「誰かを喜ばせたい」「人の役に立ちたい」という、純粋で幼子のような優しさでした。
ベン君がコードを書いているとき、あるいは技術の可能性に目を輝かせているとき、その胸の中にあったのは、神様からいただいた「柔らかい肉の心」そのものでした。彼は知識や技術という服で自分を飾ったのではなく、ただ純粋な好奇心と愛という「婚礼の衣」を着て、毎日を生きていたのです。
第一朗読で語られた「清い水」の約束を思い起こします。
神様が注いでくださる清い水は、私たちの渇きを癒やし、心を新しくします。
ベン君が去った後、彼の優しさに触れた人々によって、遠く離れたベトナムのカマウの地に、人々の渇きを潤す「清い水の井戸」(Giếng Gioan Baotixita)が捧げられました。誰にも誇ることなく、静かに掘られたその井戸からコンコンと湧き出る水は、まるでベン君が地上に残していった純粋な愛の温もりそのもののようです……。
今日、私たちが記念する聖ベルナルド修道院長は、神様の慈しみと聖母マリア様の温かい母性について、蜜のように甘く美しい言葉で語った聖人でした。聖ベルナルドはこう言いました。「神の恵みは、私たちが差し出す小さな器を、あふれるほどの愛で満たしてくださる」と。
ベンジャミン君は今、天の国でまさにその「あふれる愛」の中にいます。
かつて地上で、大空を飛ぶ大きな旅客機を見上げて目を輝かせていた少年は、いまや地上のあらゆる重荷や病の苦しみから完全に解き放たれ、天の広大な光の中で、聖母マリア様や聖カルロ・アクティスとともに、王の婚礼の宴の席に着いています。
王様が差し出した眩しいばかりの「恵みの衣」を身に纏い、あの優しく澄んだ笑顔で、大好きなご家族を見つめています。
そして、ベン君は天の宴の席から、いまも皆さんに語りかけています。
「お父さん、お母さん、ライアン……泣かないで。ぼくはこんなに元気に、天の光の中にいるよ。だからどうか、悲しみに押し潰されないで、一日一日を大切に生きてね」と。
お父様のアランさん、お母様のタオさん。
そして、愛する弟のライアン君。お兄ちゃんは、あなたの成長を天国の一番良い席から、誰よりも誇らしげに見守っています。あなたが学校へ行くとき、スポーツをするとき、ふと空を見上げるとき、ベン君はいつもあなたのすぐそばで、目に見えない温かい手で肩を抱きしめています。
今日、画面を通してこの祈りに参加されている遠くの皆さま。病院のベッドで病とたたかっている全国のお子さんたち。そして、愛する家族を失い、消えない深い苦しみの十字架を背負っておられるすべてのご家族の皆さま。
神様は、私たちの流す涙を一つも無駄にはされません。私たちが「もう歩けない」と立ちすくむとき、主イエスはそっと近づき、私たちの傷ついた心に「清い水」を注ぎ、私たちを包み込むようにご自分の「恵みの衣」を着せてくださいます。
今日、この聖堂を出るとき、あるいは画面を閉じるとき、一つの小さな希望を胸に持ち帰ってください。
今日一日、誰かに対して少しだけ優しい言葉をかけること。
悲しみに沈む胸に手をつて、「主よ、私の心にあなたの新しい霊を注いでください」と静かに一回だけ祈ること……。
その小さな一歩が、私たちが今日着る「婚礼の衣」となります。
ベンジャミン・ヴォ君は、天の父なる神様の御手の中で、最高の平安の中に包まれています。
主イエス・キリストの慈しみと、聖母マリア様の母なる御保護が、今日も、そしてこれからもずっと、ご家族と皆さんの歩みを照らし続けてくださいますように。
アーメン。
For the intentions entrusted to Ben on our prayer wall:
At the Savior’s command and formed by divine teaching, we dare to say:
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン。
主が皆さんを祝福し、あらゆる災いから守り、永遠のいのちへと導いてくださいますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
✝ 全能の神があなたを祝福し、父と、子と、聖霊の恵みがあなたとと もにありますように。アーメン。